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「掛軸 尾竹国観」
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掛軸 尾竹国観

尾竹国観 山拾得図

兄弟一の早熟、尾竹三兄弟の末弟・掛軸画家・尾竹国観。1880年、尾竹家三男として新潟で生まれました。兄・竹坡と同じく笹田雲石に学び、幼くして国坡の号を受けます。12歳のとき、全国児童画コンクールで一等を受賞。その後上京して小堀鞆音に入門し、漢学を高橋太華に学びます。兄の越堂、竹坡のいる富山に移り、兄たちとともに売薬版画や新聞の挿絵などを描いて生計を立てていました。二歳上の兄・竹坡とは歳が近いこともあり、行動をともにすることが多く、よきライバルでもありました。14歳のとき富山博覧会で三等を取り、16歳で日本美術協会の一等賞を取り、日本美術協会の銅牌を受けました。このことが小堀鞆音の目にとまり、再び兄・竹坡とともに上京し1896年、小堀鞆音の門下に入りました。20歳前後から日本絵画協会、日本美術院連合絵画共進会を舞台に活躍し、1908年の“国画玉成会事件”で兄・竹坡とともに、岡倉天心・横山大観と対立してしまいます。第三回文展において「油断」で二等賞、第五回文展において「人真似」で三等賞を受賞します。1913年に横山大観率いる『学校派』審査員の不可解な落選という不運にあいますが、1918年までは意欲的に数々の作品を出品しました。国観が描き続けた雑誌の挿絵、ポンチ絵、教科書、絵本など、近年では改めて脚光を浴びつつあります。特に国観は人物画に本領を発揮し、天性のデッサン力に恵まれ、群集の見守る中で即興画を仕上げるのを得意としました。そのようなたぐいまれな画力を注いだ「ポンチ絵」が近年になって評価されつつあります。2007年2月発行の美術誌「Bien(美庵)」Vol43で尾竹三兄弟の末弟として紹介され、国際浮世絵学会の機関誌「新潟日報」や「北日本新聞」でも「Bien(美庵)」の特集を高く評価し、全国に潜在していたファン、コレクター、研究家、美術館、骨董商から全国規模の展開が湧き起こり、盛り上がりを見せています。